やめた
2007年 07月 09日
他人の(自分のもだが)誕生日には一切興味も関心もない。だから誕生日のプレゼントとかカードなんてものとは無縁で快適に過ごしているのだが、今日はたまたま、カードの1枚も書いてごくごくささやかなプレゼントでもすれば、非常に喜ぶであろう人の、ものすごくお世話になっている人の誕生日が明日であることを知った。それで少しだけ、バースデーカードを買おうかなと思った。
結論としてはやめたんだけど。実際にその人には深く感謝しているのだがどうしてもカードを贈る動機としては「年寄りを喜ばせる演出」が先に来る。私は別にめでたいともなんとも思っていないのに、演出のためにカードを贈るのは白々しい。ということでカードはやめ。プレゼントもやめ。
ただし、86歳のアーリアの誕生日が、次もし来たら87歳になるが、それは例外に考えている。もうあそこまでいくと存在自体がめでたい。つまり最低限の付き合い上、私もお祝いごとを片端から拒絶しているわけではないが86ぐらいになると社交辞令よりもそのおめでたさ(誕生日のおめでたさではなくて存在自体のおめでたさ)を喜ぶ気持ちが上になって、演出ではなくなるのである。
演出を全部なくしたら人生の光景はかなり寒々したものになるだろうけど、私は本当はそれを望んでいる。余計な演出を全部とっぱらって、寒々とした人間関係の中で暮らしたら快適だろうなあと夢想し、ある程度は実現してもいる(たとえば親しい友達はみんな私の誕生日嫌いを知っているので誰もバースデーカードをくれたりする人はいない)。
楽しくやれるのなら楽しくやればいい。ただ私は楽しくないほうが好きなのだ。楽しくなく、快適に生きられたら理想的なのだけど、つい色々楽しいこともあるし、なかなか難しいところである。
ちなみに年賀状やらクリスマスカード(Season's greeting)は今のところまだそこそこ書いている。そのうちどうなるかはわからない。
結論としてはやめたんだけど。実際にその人には深く感謝しているのだがどうしてもカードを贈る動機としては「年寄りを喜ばせる演出」が先に来る。私は別にめでたいともなんとも思っていないのに、演出のためにカードを贈るのは白々しい。ということでカードはやめ。プレゼントもやめ。
ただし、86歳のアーリアの誕生日が、次もし来たら87歳になるが、それは例外に考えている。もうあそこまでいくと存在自体がめでたい。つまり最低限の付き合い上、私もお祝いごとを片端から拒絶しているわけではないが86ぐらいになると社交辞令よりもそのおめでたさ(誕生日のおめでたさではなくて存在自体のおめでたさ)を喜ぶ気持ちが上になって、演出ではなくなるのである。
演出を全部なくしたら人生の光景はかなり寒々したものになるだろうけど、私は本当はそれを望んでいる。余計な演出を全部とっぱらって、寒々とした人間関係の中で暮らしたら快適だろうなあと夢想し、ある程度は実現してもいる(たとえば親しい友達はみんな私の誕生日嫌いを知っているので誰もバースデーカードをくれたりする人はいない)。
楽しくやれるのなら楽しくやればいい。ただ私は楽しくないほうが好きなのだ。楽しくなく、快適に生きられたら理想的なのだけど、つい色々楽しいこともあるし、なかなか難しいところである。
ちなみに年賀状やらクリスマスカード(Season's greeting)は今のところまだそこそこ書いている。そのうちどうなるかはわからない。
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by warabimochi57
| 2007-07-09 22:20