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人間の定義を云うと外に何にもない

『人間の定義を云うと外に何にもない。只いらざる事を捏造して自ら苦しんでいる者だと云えば、それで充分だ。』
夏目漱石『吾輩は猫である』 新潮文庫353ページ


前にも書いたと思うが、この一節を読むとまあ、漱石の時代からそうだったんだから仕方ないよなあとも思い、全くだ、人間なんてどいつもこいつもバカばっかりだとも思い、それが定義だったら仕方ないよなあ定義なんだからとも思い、なんとなく半分あきらめつつ半分まあええかというような気にもなる。こんなんを80年も90年も飽きずに繰り返すとは全く定義どおり人間なのであろう。

扁桃腺を腫らせて数日寝ていた。扁桃腺が腫れるのは子どもかと思っていたのだが、実に50近くなっても腫れるのである。それでここ数日がなかったのと同じになってしまった。シンポジウムを聞きに行こうとか発表の資料を作ろうとか皮算用していた部分が全部なかったのである。必修の演習も休んだ。そのかわり喉が痛いとか熱が出るとか頭が痛いとかいらんことばっかりあった。皮算用はしばしば外れる。しかし皮算用が全部実際にそのとおりになるものなら、人生は皮算用だけをしていればよいのであって実際に何かをする必要がなくなってしまう。とはいえ「何かをする必要」なんてそもそもあるのかといえば、それこそが只いらざる事なのかも知れない。

といらざる事をしていないで今日から復活して学校へ行こうと思う。
# by warabimochi57 | 2015-11-04 11:18

詐欺師の商売

自分の方言のデータを、11年前に実家の近所のご夫妻に話を聞かせていただいたカセットテープの録音をデジタルデータに焼く機械はないので、そのテープをかけてボイスレコーダーで録るということをしている。これは11年前に外大の学部の時にレポートの課題に使ったデータなのだが、ごく一部しか書き起こししていなかったので、それ以外の箇所は私の記憶から抜け落ちていた。

おっさんは、うちの方言で「おっさん」は敬語として通用するので、私はその子供の時から世話になっている老夫妻におっさん、おばさんと呼びかけているのだが、兵隊に行かれた人である。その話では11年前当時、県内各地で戦争展をされたということでおっさんは写真やなんかの資料をいろいろ県に寄付をされたのだった。そこで何が起こったかというと、その戦争展に行った人がそこに展示されているおっさんの兵隊さんの写真を勝手に撮影し立派な額に入れて、おっさんがいない間に自宅を訪問しておばさんを騙してその写真を売りつけたのである。本人が寄付した写真を、展覧会場で客が勝手に写真に撮り、立派そうな額に入れてうまいこと言うて妻に売りつけるという商売、世の中にはいろんな人がいる。おばさんの弟さんは19歳で兵隊に取られて19歳で亡くなったという。70年前の話を私たちは繰り返さないと言い切れなくなってきた現在、ご夫妻はご存命ではあるがもはや元気なお話を聞かせていただくことは望めなくなっている。

連休中に小学生の甥姪と電車に乗っていたら、二人がどうもこの連休中にうまく遊べなかったことを反省していた。つまり私やおじいちゃんやおばあちゃんがみんな暇な時をうまく活用してみんなで遊びたかったのであるが、もう一つ日程が合わなかった、それを反省していたのである。平和なやつらである。私の論文は締め切りまでに書けるかどうかわからない。残暑も戻ってきて世の中も暑苦しいのだがとりあえずできることをやっていこう。お揚げさんでも炊いてごはんにしようと思う。
# by warabimochi57 | 2015-09-23 19:40

虎と王子とさくらんぼ

法隆寺の玉虫厨子にも描かれている仏教説話に捨身飼虎(しゃしんしこ)というのがある。釈迦の前世の姿だった王子が、お腹をすかせた虎のために自ら餌になったお話。先日はその同じモチーフで描かれたマニ教の絵画についての講義を聞いた。インドに端を発する説話で、同じような話がイスラム、キリスト教世界に伝えられており、それがマニ教の絵画に見られるということは、マニ教がその伝播の一役を担っていた証左ではないかという話なのだが、そのマニ教の絵画は最近日本で発見されて、専門家であるうちの先生の話によれば明らかに本物なのである。なんでそんな昔の、イスラム教もキリスト教も始まる以前の宗教画が日本にあったりするのかそれだけでもびっくりしてしまう。

先生によると、マニという人は視覚が、ビジュアルに訴えるということが、どれほど布教に重要な役割を果たすかということをよく知っていて、自ら描いた絵も多く残されているということだった。今の時代であれば、いち早くネットに目をつけて世界に発信していたような人だったかも知れない。マニ教なんてそんなのが世界史の教科書に出てきたなあ、という程度の認識しかなかったのだが、日々蒙を啓かれる。

それはともかく、山形の友達からさくらんぼを送っていただいた。果物はそのまま食べるのがなんといっても一番おいしいので食べられるだけ食べたのだが、食べきれない分は冷凍し残りはジャムにした。ジャムといっても数日で全部食べてしまうぐらいの量なのですぐできてルビーのように赤いのである。ルビーは持っていないから知らないのだが、きっとこんな風に赤いのであろう。それをヨーグルトに混ぜて、ドライフルーツもちょっとまぜて食べるとこれがまた仏教説話にでも出てきそうな極上の美味なのである。このジャムを食べつくすまでは絶対死ぬわけにはいかない。

それから実家に転がっていた非常にばかばかしいダイエットの本を今持ってきていて、もし自分が死んだらこんな本を読んでいたのかと思われては非常に心外なので絶対事故にあったりもしたくないのである。そんな風に支離滅裂なことを考えている間に7月になってしまった。Time flies like an arrow, fruit flies like a bananaである。いい加減に心を入れ替えて勉強しようと思う。
# by warabimochi57 | 2015-07-05 22:41

5月が終わる前に

更新しようと思ったらあと12分しかないのだった。

結構しんどいしんどいとあちこちで言っているので、一つだけ楽しいことを書こう。他人の論文を読むのが楽しくなった。それは必ずしも自分の研究の関連という訳ではなく、なんとなく楽しそうだ、で読んでみたら楽しい。そういうことがたまにあるようになった。

一緒に勉強している仲間達はその人が生まれた時にもう自分は大人だったりする訳だが、まだ一緒に伸びていくこともできるはず。なんせ余っている脳みそが使ってないのがあると思うから。

月が替わるまえに更新できるかな。
# by warabimochi57 | 2015-05-31 23:59

言語学を食べて生きる

学校に入って1ヶ月、私の周りの人々はどんな人たちかというと、みんな言語学を食べて生きています。本当です。おやつも言語学です。趣味は自分の専門外の言語です。ケチュア語とか広東語とか。この人たちは神様が空気を止めても気づかずに生きるだろうけど言語学を止めたら5秒で死ぬでしょう。そんな感じ。

私はたとえばドイツ語は2日で挫折して3日さえ続かなかったのですが、ここにもドイツ語ができない人はいるけれど、でも一言半句もわからないなんて人は皆無です。みんなその言語ができなくてもどんな言語かってことは知っている。全てにおいて私のレベルでは話にならんではないか。

というのは事実なんですが、ではどこから手をつければいいのか考えた時、それは英語とトクピシンだと一つ答えがはっきり見えた。新しい言語、そして昔少しは習ったものの全くできない言語にも少しずつ手をつけたい。言語学の理論と自分が研究する自分の方言のフィールドワークもやらなくてはならないしやっている。授業も少しある。それとは別に自分の足りなさを底上げするのにどうするか。

今までずっとやってきた、でも全然極めていないところから手をつけるべきだと、私は無神論者だけれど、モヤモヤさんが降臨してそう言ったのです。私はもう一度初心に返ってトクピシンを徹底してやり直すべきであり、英語をやり直すべきなのだ。という訳で連休はトクピシンをやっている。私は今までずっとご飯をたべて生きてきたけれどこれから言語学を食べて生きていくのである。

いやあっと言う間の一ヶ月でした。まずはぼちぼちやっています。
# by warabimochi57 | 2015-04-30 00:41

謹製 さつき


by warabimochi57