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感動を先取りするな

「これ面白いよ」はいいけどどこがどう面白いかまでを解説してしまっては面白さは半減する。感動を熱く語ってもしばしば「ふーん」で流されてしまうのは、自分でできたかもしれない感動を先取りされた恨みではないか。

何が面白いかは教えてはいけない。特に教師と生徒の場合は、力関係があるのだから先生の感動を押し付けてはいけない。それは抑圧である。聞いてくれる人がいる時、つい自分の感動を熱くなってるる語りたくなるものであるが、おいしいところは自分で発見しなくてはならない。そうでなくては一番おいしいところはもう食べちゃった魚も同然である。一方で「この感動をわかってもらえない」のは寂しいが人生はそういうものである。

面白いかもよ、と示唆だけをくれる先生たちに恵まれたことを幸いに思う。人はこれを学恩というのだろう。
# by warabimochi57 | 2016-11-06 21:56

留年するとこした

ところであさってには博士後期課程の報告論文というやつを出さないといけないのであるが、これは学生便覧に書いてあるだけで、締め切り2日前になっても誰からもどこからも出せともなんとも言われないので私はもう少しでこんなのがあったことを忘れて留年するところだった。たまたまドイツで研究員をしている同期の友人が、彼はドイツにいるから出せないのでメールで送るから僕の分も出しておいてねとちょっと前に連絡をよこしたので自分も出さなきゃいけないことに気づいたのである。危ない危ない。先生に聞いてみたら、この報告論文というのはこの1年間にやったことをまとめればよいので、特に新しい論文を書く必要はなく、今までの論文やデータを整理して今後の自分の研究のために出せばよいということだった。1年間にかろうじて小さいのを2つ書いたのみの私の論文は、それをまとめるとなんか縮小して2つだったものが1.5ぐらいになってしまうのであるがやむを得ない。

さらにそれには研究計画書をくっつけて出さねばならず、こっちは新しく書かねばならない。そこで去年入学当初に提出したものを一体私の計画はどうなっていたんだっけと見直してみて、そのあまりに稚拙さに愕然とした。いや、私、成長してるわ。少なくとも1年前のひどさがわかる程度には。

こんな私にも最近はコメントを求める人が出てきた。とてもとても先生や研究者の仲間達のような的確で鋭いコメントはできないけれども、それでも今までずっとずっと自分の拙いレポートや卒論やなんやかんやをたくさんの先生や先輩やいろんな人に送りつけたりして、指導を仰いできたのである。その万分の一でも若い人に返せる機会にはなんとかちょっとでも応えたい。「それでも自分の受けた学恩には遠く及ばないけれど」というのは、別の機会に尊敬する先輩がおっしゃっていた言葉である。もしかしたら先生や先輩たちもみんな順繰り順繰りにこの道を通ってきたのだろうか。先生達はみんな偉くて私には雲の上に見えるけれど、返すどころかさらに借りを重ねるありさまでもがいている時期が、先生達にもあったのだろうか。

留年するとこした、というタイトルは厚沢部にいたころの方言で「もう少しで留年するところだった」という意味である。いや、まだ出してないからまだ免れてはいないんだけどね。留年してる場合でないから明日までには書くはずである。たぶん、きっと。ブログに逃避してないでコーヒー淹れてがんばろう。
# by warabimochi57 | 2016-02-29 20:49

少年老い易く学成り難し

明けましておめでとうございます。

年末年始も論文に追われもうずっとこういう日々が続くのかという正月もへったくれもない新年ですが、3日になって老親の顔を見に行ってすき焼きというちょっと正月らしいことをして、小学生の甥たちと麻雀したりして遊んでいたところ、甥が数え年の話を出したので今年数え年五十になることに気づきました。なんかこう、いつか死ぬ日が来るということに関しては日々色々考えて、意外に早く来たり遅くきたりの場合についても考えるのだけど、日々老いるということについては気が回らないというか、毎日の延長というのは想像しにくい。

亀よりも遅くゆっくりと去年学んだことは、理論はエリートのもてあそぶおもちゃではなくて、誰でもがそれを使えるように提供されている道具であり、学者というのは世界にそれを提供して行く人だということだった。そして思いがけない知見に会ってびっくりする楽しみというのは若い頃と変わらない。ちょっとした方法論とかソフトウェアとかもそういうのも知見のうちで、いちいちびっくりしながらやっていく楽しみをむしろ若い頃は知らなかった。年齢と言うものに縛られているのはむしろ若者だと数え年五十になってわかる。年齢だけではなくて色々なものに勝手に縛られているのは若者で、年を取るとは自由になることだ。もっと自由になりたい。

少年老い易く学成り難し。2015年はずいぶん光陰を軽んじすぎたので、今年はちゃんと外へ出て遊ぶこともがんばるしいろいろやりたいと思う。ていうかさっさと論文書けよ、ということで、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
# by warabimochi57 | 2016-01-03 21:10

こんな筈ではなかった

某歓迎会の幹事をしていて、年末なので適当な人数で場所を押さえてしまってから出席を取っているのだが、その出席率の低さにびっくりしている。だって歓迎会だよ。もうちょっと歓迎したらどうなのさ。

と思う訳だが、勿論飲み会なんてもんは参加したい人だけが参加すればよいのであって、半強制的に全員参加なんてのは時代遅れも甚だしいのである。でも学生だよ。子どもがいる訳でも介護がある訳でもない。年末の一日二日ぐらい空けられるだろうに、

とこういう思いを老害というのだろう。自分はそういう慣習でやってきたから若いもんにもつい押し付けたくなる。酒席なんて時間の無駄だと思う人もいるだろうし酒が嫌い、飲めない、めんどくさい、金がない、気が進まない、なんであろうと正当な理由である。来たくないやつは来なくていい。それはわかっているのだがなんか寂しい気がするのはやっぱ老害やな。出る人だけで楽しくやろう。というかあんまり多すぎるより少人数のほうが飲み会は楽しい。ただ予約した人数をがくっと減らしたら店に悪い。

飲み会というもの自体が時代遅れになってきているのかもしれない。そうはいっても職場の飲み会であればそんなに毎回断るわけにもいかないだろうし、学生のように気が向かなければ一切飲み会なんか参加しなくてもいい世界は理想的ではある。むしろ自分は毎回飲み会に参加しなくてはいけないような世界に適合できないからまた学生してたりするのではなかったか。

とりあえずは若い頃の慣習を当たり前のように若者に押し付けるようになってきた。こんな筈ではなかった。
# by warabimochi57 | 2015-12-04 18:58

今あるカードで勝負する

年齢カードが急速に弱まってきているわけですが、今の時代高齢者もがんばってるからね。

昨日できなくて寝ちゃったことが朝になると少し、「もう永久にできない度」が上がってて、カードは日に日に少なくなってくる。で、やっぱまだ全部シャッフルしたらエースが来るんじゃないかと妄想することが多いわけですよ。こねーよ!今あるカードで残された日々で勝負していくしかない。

ワイルドカード、というのはジョーカーとか鬼札とかそういうのだと辞書に出ていますが、こないだBBC(びわこ放送ではない)の英語学習サイトで、「先の読めない人」、つまり実は大物で大バケするかもしらん、あるいは天才かもしらん、けど単なるアホかもしらん、人とか状況という意味だというのを学習した。自分はワイルドカードやと思ってたらあかんよな、君は単なる「3」やスペードの3ぐらい。

ということで、3,3、4,4、8ぐらいのツーペアだけどフルハウスのふりするのではなくて、今あるカードできっちり勝負していこうと思います。

谷川浩司もがんばれ(決して自分と同レベルにみなしているわけではありません)
# by warabimochi57 | 2015-11-10 10:06

謹製 さつき


by warabimochi57